ブックタイトルASAP2019vol_4
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ASAP2019vol_4
―まず佐賀製作所設立の背景などについてお伺いできればと思います蒲原氏 弊社の創業は1965 年ですが、親会社である新日本無線が、半導体の後工程を展開する工場用地を探す中、佐賀県知事が社長の大学時代の同窓であった関係から、同県への工場誘致を受け、人材面での人手の確保のし易さ、半導体の製造で使用する純水が地下水として豊富に存在していたことなどが要因となり、この地で創業することになったと聞いています。創業時はアメリカのレイセオン社(軍需工場)からダイオードトランジスタを生産するなど保税工場としてスタートし、1970 年代に入ると新日本無線でICの生産が始まったことから、弊社の生産もIC製品に切り替わって行き、これが弊社の経営における最初のターニングポイントと言えます。当時、新日本無線の後工程の工場では、当社がメインの工場で、2 0 0 0 年代初頭のピーク時には月約1億3000 万個のICを生産しており、従業員数も1,000名を超えていました。現在は使用していませんが、工場の敷地内には、女子寮や通信制の短大までの資格が取れる学校もありました。従業員の内、オペレーターは9割が女性で、佐賀だけでは充足しないため、近隣の長崎や熊本からも人を集めていました。当時の生産はまだ自動化ではなく、治具を使った細かな仕事が多かったため、女性向きの仕事であったことがその要因です。当時新日本無線の親会社であった日本無線が日清紡のグループ企業であった関係から、女性社員を生産の中心に置く紡績会社の工場運営のスタイルを弊社工場も受継ぎ、工場の作り方なども紡績工場を踏襲したものになっていました。― 半導体業界の成長と共に順調に事業規模を拡大される中、経営状況が変化した要因についてお聞かせください蒲原氏 国内製造業全体の流れとして、1980年代後半から、円高の進行を背景に、生産拠点を移す兆しが見え始め、当時弊社のメインの顧客であった家電メーカーも海外に工場移転を進め始めたことから、後工程の自分達も海外拠点が必要だということになり、1989年タイのランプーン工業団地に新日本無線と共同出資で工場を設立し、1 9 9 0 年から操業を開始しました。以降汎用製品はそちらに生産をシフトしていくことになったのですが、タイの工場を拡張するため、当製作所のライン移管なども行われるようになりました。そして2008年のリーマンショックなどを経て、2011年からはその流れが本格化し、ピーク時には1000名を超えていた従業員数も、2014年には240名まで減少していました。タイ工場で汎用製品の生産を厚くしていく中、佐賀製作所では車載製品など技術的レベルの高い製品やOEM製品の生産に軸足を移し、新たなビジネスモデルの構築に取組み、以降その事業を拡大させてきました。現在当製作所には480名(請負、派遣を含む)が勤務していて、それにプラスして新日本無線からの出向エンジニアが50名いるため、全体で530名の従業員数となっており、ボトムの2014年から、人員、業績と共に、回復基調となっています。半導体の後工程を担当する企業は、吸収合併などでどんどん集約されてきており、同じ社名で55年間やってきている弊社は非常に珍しい存在です。その歴史の中、積み重ねてきた高い技術力が弊社の強みだと考えていて、特に小型、薄型の製品をハンドリングするような技術は国内の競合他社や、海外の工場でも真似できないものと自負しています。― 今回のコンサルティング導入にはどのような背景があったのでしょうか?蒲原氏 タイへのライン移管などで佐賀製作所の生産規模が減少する中、これまで弊社のものづくりを支えてきた多くの熟練作業者が退職することになり、属人性の高い作業が多い弊社の生産の基盤が弱体化していました。それが2014年をボトムにして、2015年から佐賀製作所外観 車載、OEM製品へのシフトを図り、また生産を戻し取締役 製作所長蒲原 繁氏佐賀エレクトロニックス株式会社2