ブックタイトルASAP2020vol_2
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ASAP2020vol_2
自社に導入したことで、板かまぼこの大量生産が可能となった。また、当時の日本は核家族化が進み、食生活のスタイルにも変化が出ていたことから、従来よりコンパクトな規格の食べきりサイズの板かまぼこを開発。販売にあたっては夕方の子供向けのアニメーション番組でテレビCMを放映するというマーケティング戦略を実施した。親しみやすいCMソングの効果もあり、このCMは大きな反響を呼んだ。時代のトレンドを読んだ商品開発、大量生産を可能にした機械化の導入など、数々の取組み全てが功を奏し、同社の板かまぼこへの需要は飛躍的に拡大。企業としての更なる成長を遂げる礎を築くことができた。また当時はまだ社名として創業時のマルヤス水産株式会社を名乗っていたが、CM効果などで夕月という商品名が非常に流通したことから、社名も株式会社夕月とすることになった。夕月の認知拡大に大きな功績があり、現在も主力商品である、板かまぼこの「ホワイト」と「レッド」は当時の築地市場で凄まじいほどの人気を博し、商品を載せたトラックが荷下ろしするのをお客様が待っているような状況であったという。この人気は単にCM効果やサイズの変更というマーケティング戦略だけで作られたものではなく、創業当時からの味へのこだわりを大量生産になっても追い求め、「手作りの時と同じ味を再現するためには、どうすればいいのか?」ということを 平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災は、いわき市にも甚大な被害をもたらした。夕月の工場内も地震の影響でいたるところに亀裂が入り、ガラスの壁が割れ、事務所の中はぐちゃぐちゃになった。大地震が発生した時刻はかまぼこ作りが終わって出荷待ちのかまぼこが山のようになっていた時間帯。繰り返す余震の中、立っていられないような状況だったが、全員が駐車場に集まって安否確認をし、携帯でそれぞれの家族と連絡をとった。幸いにも従業員とその家族全員の無事が確認できたため、従業員には帰宅してもらうことにした。 その後、避難所での食料調達が難しいことを知り、出荷できなかったかまぼこを配ろうと消防や警察に問い合わせたが、当時は救助が優先で掛け合ってもらえなかった。そこで従業員が手分けをしながら避難所や集会所など、出来る限りかまぼこを配った。 工場の状況としては、機械に直接の影響はなかったが、原料のすり身500トンが保管されている冷凍庫は水冷のため、ライフラインが止まっている状況でも、水を供給しなければならず、当時の工場長とボイラー担当者が、井戸水をくみ上げて冷却用の水を供給し、何とか冷凍庫を保つことが出来たという。それでも1ヶ月後、もう何としても稼動しなくてはならないという状況で、やはり水の配管がどうしてもつながらず、最終的には配管を掘り起こしてバイパスを組み、ようやく水が供給され工場を稼動することが出来たという。ただ、その1ヶ月間、流通への供給が滞ってしまい、新潟の大手かまぼこメーカーが設備投資によって商品を増産し、夕月の棚はその会社に奪われてしまった。その後、巻き返しを図る02 東日本大震災による甚大な損失。その回復に向けた全社一丸での取組み試行錯誤しながら作りこんでいった過程があり、社長の清水氏曰く「石臼の中ですり身と格闘」するような努力の結果、築地市場というプロが評価する場所で、味そのものに対する非常に高い評価を得たことが、その最大要因であったという。以降時代の変遷に伴い、基幹商品である板かまぼこ以外にも、竹輪、かに足など惣菜型商品の開発なども行い商品ラインアップを拡充し、企業として更なる成長に向けた着実な歩みを続け、平成4年(1992年)には、かにの捕獲が難しいという状況を踏まえ、新たな設備投資を行い、かに足の技術を生かして開発した、かに風味のかまぼこが一大ブームとなった。12