ブックタイトルASAP2020vol_2
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ASAP2020vol_2
◆まず初めに御社の創業経緯についてお聞かせください佐藤氏 当社は創業時から日光市を拠点に活動していますが、1964 年創業時の工場はここから5㎞ほど日光寄りに北上した野口という場所でした。その後1976年に鹿沼にも工場を設立し、暫くの間2拠点で生産していましたが、効率が悪く、マネージメントも行き届かないことから1984 年より現在地の日光市大室に工場を統一して営業を行うようになりました。 光工業という社名は創業者である現在の社長のお父様がつけられたものですが、その由来は正直よくわかっていません。日光の“光”を取ったとか、未来に光を照らそうという意味だったとか、先代社長の奥様のお名前が光子さんだったので、そのお名前を頂いたなどという説もありますが、誰もその真意を確認しないまま、先代社長の急逝と共に真相は藪の中となってしまいました。今、“光工業”と名乗ると、通信関係の最先端企業か何かだと勘違いされることもありますが、御覧のとおりの創業56年のプレス屋です。 最初に日光を拠点にした理由も明確なことはわかっていないのですが、近くにF 電工様がありますから、おそらく当初はこのF 電工様とのお取引を当て込んでといったところだったのではないでしょうか。◆創業時から幾度かの経営の転換点があったとのことですが?佐藤氏 当社には1964年の創業から56年間で、おおまかにいうと4回、危機的な状況がありました。 まず一度目は、創業5年目に当時のメイン顧客で売上の半分以上を占めていたK気象測器様の倒産です。この時は、当時の社長がK気象測器様の経営層と個人的な付き合いが深く、いち早くその情報を掴むことができた為、深刻な状況に陥る前に軸足を他社に移すことで何とか難を逃れました。 2度目の危機はその7年後、次のメイン顧客となっていたN圧電機様から受注の、当時当社の主力製品となっていたトランシーバー用部品が突然生産中止となり、N圧電機様はそのままその事業から撤退という事態になった時です。それまで月産150万個あった売り上げが一気にゼロになってしまい、生産が間に合わないからと見込みで作っていた在庫の償却もままならないという有様です。寝耳に水の状態で、流石になすすべもなく、その年の売り上げは対前年比40%減、創業以来初の営業赤字となってしまいました。 創業12年目の当時はまだ会社としての十分な蓄えもなかったのでしょう、この時には幹部社員が集まって資金繰りをどうするかの経営会議を行ったそうです。話し合ったのは「社員を半分に減らすか、社員は減らさず、全員の給与を半分にするか」という“究極の選択”だったらしいですから、当時の窮状が偲ばれます。因みに、この時の決断は全員一致で「社員は減らさずに全員の給与を減らそう、全員で痛みを分かち合おう」だったそうです。「この時の決断があったから今の光工業がある。もしこの時、幹部連中の誰か一人でも“社員を減らして欲しい”などと言うような会社だったら、この会社はとっくの昔に潰れていたに違いない」というのは、後になって当時の経営陣から聞いた話です。 3度目の危機は更に10 年後の22 年目、当時メインの顧客となっていたオーディオメーカーのA社様から頂いたある告知に始まりました。A社様と言えば、当時の経済誌による会社ランキングでも上位にランキングされるような一部上場の優良企業で、当社もそのお取引を通じて大きく成長させて頂いた会社でした。 当時は当社の売上の9割以上がA社様だったのですが、この年の会社方針説明会で、「当社は今後海外に生産をシフトしてゆき、国内生産は縮小してゆく。海外に一緒に出てゆく取引先にはこれからも仕事が出せるが、ついてこない会社には仕事は出せなくなる。」と言われたのです。A社様が精力的に海外展開を進めていたのは知っていましたが、だからといって日本でのものづくり専務取締役佐藤 直志氏2