Techno Innovation Labo vol.2 『チャンスの捉え方』
本坊酒造株式会社 様
ウイスキーの名前の由来は、ゲール語で「生命の水」という意味のウシュクベーハー(Uisge-beatha)を語源としたものと言われており、このゲール語を使っていたゲール族の末裔がスコットランド人やアイルランド人と言われている。現在世界的に高い評価を得ている日本のウイスキーはスコッチウイスキーを手本として1870年ごろから造られ始め、1924年には販売用の生産が開始された。鹿児島市の酒造メーカーである本坊酒造株式会社が同社創業の地である南さつま市加世田「津貫」でウイスキー製造を始めたのはそれから25年後の1949年のこと。そしてそこから同社ウイスキー事業は紆余曲折の道のりが続くことになる。
同社の代表取締役社長 本坊 和人氏によると、1960年に洋酒生産の拠点として山梨にワインとウイスキーの工場(現マルス山梨ワイナリー)を開設し、洋酒事業にも本格的に乗り出すが、事業を軌道に乗せることはなかなか難しく、当時、基幹事業であった甲類焼酎の売上で出た利益が、洋酒事業で無くなってしまうという状況となっていたという。「地ウイスキーブームが来た1985年に、15億円を投資してマルス信州蒸溜所をスタートさせました。しかしその後、ウイスキーの級別廃止で大幅な増税による値上げで事業は低迷。90年代以降のハードリカー離れも大きく影響し、需要も減少する中、蒸溜休止の状況にまで追い込まれていました」
長く厳しいウイスキー冬の時代。事業継続を断念することは無かったのだろうか?「様々な方面からウイスキー事業を売却しないかとの打診もありましたが、国産ウイスキー誕生前まで遡る歴史的系譜と貴重なモルト原酒という財産を所有していたことから手放すことなく、1992年に蒸留を休止したまま時だけが経過していました」。しかし次第と潮目が変わってきた。2008年にイチローズ・モルトのベンチャーウイスキーが秩父に新しい蒸留所を開設したのだ。またハイボールブームが巻き起こり、ウイスキー需要が回復し始めたこと、さらには、日本のウイスキーが世界のコンクールで賞を獲得し評価されるようになっていた。これが最後のチャンスとの判断から、2009年に蒸留再開を決定し、マルス信州蒸溜所の点検・整備を行った。そして19年ぶりの2011年にウイスキー蒸留の再開にこぎつけ、2013年には、鹿児島と山梨から引き継ぎ長野の地で熟成された28年ものの原酒でワールド・ウイスキー・アワード(WWA)の世界最高賞を獲得することができた。
「1949年に津貫でスタートした当社のウイスキー事業は紆余曲折の長い道のりでしたが、この事業を続けて来て、今は本当に良かったと思っています」そう語る本坊氏の表情はとても晴れやかだった。
試練の中でも、諦めず前向きに取り組んでいけば、どこかにチャンスの芽が潜んでいる。日米通算4,367安打を記録した天才打者イチロー選手は次のように語っている「壁というのは、できる人にしかやってこない。超えられる可能性がある人にしかやってこない。だから、壁がある時はチャンスだと思っている」。
苦境、逆境の時にこそ未来の成長に向けたチャンスがある。本坊酒造のウイスキー事業への取組みは、この言葉を正に体現し、不安定で不確実な時代を生きる私たちに、明日に向かう勇気とヒントを与えてくれる。
本坊酒造株式会社 マルス信州蒸溜所
(2020年9月撮影)